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喜んで自由の刑に処されよう

僕が以前友人と僕が感じている苦しみというのは、サルトルが言っている「自由の刑」に処されている状態だということがわかった。 自由の刑というのは以下のことである。 社会が発達して、誰でも生きられる時代が来た。その結果、何をしてもいいことになる一方、何が正しいのかは示されないし、未来にならないと何が正しいか誰にもわからない。未来になり、もし自分の選択が間違っていた時には「あなたが選んだのだから責任はあなたにある。」と責任を突き付けられる。 他の国のことはよくわからないのだけど、日本の社会はある程度政府が「これが正しい」と示すことで国民は自由の刑から逃れている。高校を卒業したらすぐに大学に入り、卒業と同時に終身雇用の会社に入る。落ち着いたら結婚し、子供を産んで家をローンで買う。一見縛られているように思えるけど、自由の刑からは逃れられる。 社会に縛られるか、自由の刑に処されるか。どちらがいいとも悪いともないけど、やっぱり僕は後者を選択することに決めた。社会に縛られるのでは、生きている意味が感じられない。たとえ僕の選択が間違って社会のお荷物になったとしても、きっとご先祖様は褒めてくださるはずだ。喜んで自由の刑に処されよう。

自分が死んだ後でも、社会を幸福にし続けられる仕事をしたい

以前『ラッセル幸福論』のまとめとして、以下の二つの行動を起こすときに人は幸福になれると書いた。 一つ目は、他人の目を気にせず、本当に心から自分がやりたいと思うことをすること。もう一つは自分の中に引きこもらず、社会を幸福にするような行動を起こすこと。 僕はどのような仕事をしたいか。僕は今研究者であり、同時に芸術家をとても尊敬している。研究者と芸術家に僕が心を惹かれる理由がはっきりとしてきた。 それは、それらの2つは「自分が死んだ後でも、社会を幸福にし続けられる」からである。 例えばコーヒーショップの店員は、今の僕よりもはるかに社会を幸福にしている。だけど、その店員が存在しなければならない。医者も病気を治せるが、その医者が死ねば病気を治せない。でも、薬を作る研究者は、その研究者が死んだ後でもその薬で人を治すことができる。ピカソの絵は、ピカソが死んだ後でも人を魅了することができる。 僕は、コーヒーショップの店員よりも研究者のほうが偉いとは決して思わない。コーヒーショップの店員は必要だが、研究者は必要でないとすら思っている。国家が研究や芸術のために数百億円費やすのであれば、その分福祉や教育に回せという批判があれば、それを受け入れるべきだと思う。しかし、僕がやりたいことは自分が死んだ後でも、社会を幸福にし続けられる作品を作ることなのだ。だから批判を怖がらず、未来を怖がらずに進んでいこう。

ストックホルムもクリスマスムードに

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Sallhall(市場)の外で売っていたクリスマスツリー Sallhall内も若干クリスマスムードに。午後4時だけど真っ暗。 ハートの飾り付け これは定番なのかな。

チーズフォンデュでよっぱらう

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チーズフォンデュ作ったんだけど(と言っても市販のやつを温めただけ)、おもったより白ワインが強くて酔払たよ。

[IS]オーロラを見に行く3:ゴールデンサークルへ

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アイスランド2日目。実質的には今日が最終日である。2日しか滞在しないということを宿に泊まっていたカナダ人に言うと「日本人はそれが普通なのか。」と聞かれた。確かにわざわざアイスランドまで来て2日は少ないが、これが日本人なのだ。 今日は、アイスランドのメインコースであるゴールデンサークルへ行く。この名前は知っていたが、調べることを怠けていていったいゴールデンサークルが一体何なのかよくわからない。とりあえず道だけはスマホで調べ、レンタカーで進む。 小さいコーラ。このサイズははじめて見た。 まず最初はグトルフォスの滝。レイキャビクから二時間ほどで到着する。アイスランドは至る所に滝があり、見飽きた感じもするが、この滝はたしかに他の滝よりも幅が広く水しぶきが雨のように降っていた。 次はゲイシール間欠泉。15分に一度ぐらい吹き出す間欠泉で、規模は様々である。 途中牧場でアイスを食べる。 最後は、シンクヴェトリル国立公園。ここは1つのスポットというより大きなエリアで、地球の割れ目を見ることが出来る。

僕の友人と人生について話す

オーストラリアに住んでいる友人から連絡が来た。その友人は、オーストラリアの永住権を取得するためにもう10年以上オーストラリアに住んでいる。先日英語のテストが受かったと言って、ビザ取得の準備のために日本に一時帰国していた。しかし、技術試験がパスできなかったと言って、結局まだ永住権は難しいらしい。 僕も本当は2016年の4月にウィーンに行き予定だったのだけど、3月にいきなりキャンセルになった。海外で働く優秀な研究者を名乗るはずが、ただの無職になったのである。僕はその時息ができなくなるほどショックだったが、その友人は10年以上も永住権に向けて走ってきたから、今回の出来事はショックだったに違いない。 永住権をとるチャンスはまだ残っているけど、友人は少し心が変わっているらしい。というのも、永住権を取ったとしても、その後に何をしたいのかが明確にわからないらしい。今までは永住権を目標にしていたとしても、それが終わろうとしたときに、次の目標が何かわからないそうだ。 この気持ちもよく分かる。ブログでも何回か言っていたが、僕自身何を本当にしたいのかが明確にわからない。ラッセル幸福論では「他人の目を気にせず、賞賛を求めずにただただ自分がやりたいとおもう事をせよ」と書かれてあるが、一体それ何なのかまだわからない。 本当にやりたいことを見つけている人はそんなに多くないと思う。ただ、そのことを本気で考える機会は、そんなに多くないのかもしれない。大学を卒業し、終身雇用の会社に入る。会社に慣れてきた頃に結婚し、子供が生まれる。いわゆる正しいレールに添っている人は、そんなことを考えている余地を与えられないのだ。 僕もその友人も結婚はしておらず、度々人生の選択を迫られる。僕だって、来年の11月にはどこで何をしているのかわからない。自由といえば自由なのだが、その分自分で決めなくてはいけないことが多い。さらに、どちらも正直優秀ではなく壁を超えられないことが多い。自分で選んだのだからしょうがないけど、何も考えずに生きていきたいとも思う。 来年、僕はその友人とオーストラリアでパン屋を開いているかもしれない。

今日買ったもの

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僕の基本的な理念に「物を持たずに暮らす」というのがある。これは、あまりポジティブな出来事で出来上がったわけではなく、金がなく移動が多い人生だったので、物を捨てざるを得なかったからである。 物を持たないということは、例えば皿は白い皿一枚、コップは一個、服は陰部が隠れれば良いということなんだけど、それだとどうしても面白みのない人間になってしまう。以前本に「無駄の集合が文化である」という文章を読んだけど、それを個人に当てはめるのであれば、「無駄の集合が個性である」のだ。つまり最小限のものを持っている人は、何の面白みのないただのタンパク質であると言えるだろう。そんな人間ではいかんと思い、最近はなるべくほしいと思ったものは買おうというスタンスにした。 今日は仕事から帰り、Design torgetというおしゃれ雑貨店にふらっとよってなんとなくいいなと思ったものを買ってみた。いつもの僕であれば、”雑貨”などという文字通りあってもなくてもいいようなものは買わないのだけど、僕は変わったのである。今日は僕が買ったものを紹介する。 まずひとつめはお洒落マッチ。日本で売ってる普通のマッチの二倍ぐらいの大きさ。マッチ棒も長い。 子供の頃、ばあちゃんが家の仏壇のろうそくに毎日マッチで火をつけていた。子供の僕にとって、マッチをつけるという行為は自転車に乗るのと同じぐらい、大人への階段のような存在だった。中々つけられず、つけられたとしても火が怖くて手を離してしまいそうになっていたが、いつの間にか普通につけられるようになっていた。僕はアフリカに住んでいた時があったのだけど、その時料理は炭を使っていて、火をつけるのにマッチを使っていた。アフリカのマッチは貧弱で、火薬がついてなかったり棒がすぐ折れたりと中々紙に火がつけられなかった。スウェーデンに来て今度はインテリアとしてろうそくをつけることが増えたのだけど、そのときは今までチャッカマンを使っていた。これからはこのろうそくを使って、少しでもアナログに戻っていこうと思う。 あと2つは、ノート。このノートの中身は似ていて、質問が書いてあって自分で埋めていくのである。 僕は最近「人生とは何か」について結構考えていて、このブログも自分有りの考えをアウトプットする場になっている。僕が思ったことを淡々と書いて