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僕がまったくしっくり来ない単語5選!!!

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2017年5月30日、新たに一個追加して5個になりました。

『リーダーシップの旅』を自分なりにまとめてみる

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『 リーダーシップの旅ー見えないものを見るー 』という本を最近読んで、なるほどなと思うことが多かった。 自分なりにこの本をまとめてみた。なんか、意識高い人間みたいで恥ずかしいけど。 下にはこの本で僕がチェックしたところを箇条書きにしてます。 自分なりのまとめ リーダーと呼ばれる人は、世の中に変革をもたらしたもの。その変革とは、変革前は誰も想像できず、変革後は当然のように思われるものである。 リーダーは生まれたときからリーダーなのではなく、結果を出した後に後付けとして、リーダーとなる。リーダーは、まずは自分をリードし、次に人々をリードし、最後に社会をリードする。 まずは自分をリードする。そのためには、自分と向き合い多くのものを犠牲にしてもやりたいことを見つけ、それを実行すること。リーダーシップの旅は一歩を踏み出すことから始まる。その一歩を踏み出す原動力は利己的でもかまわない。その利己的な原動力が他人にも影響するときに、フォロワーがついてきて、人々をリードすることになる。 フォロワーとは自発的についてくる人のことであり、会社の部下のように給料のためについてくる存在ではない。フォロワーは、リーダーが真剣なほど、やりたいことが明確なほどついてくる。 リーダーシップの旅を歩むときには、手段が目的に代わってはいけない。また、組織に同化してもいけない。 リーダーの行動が最終的に社会に還元される時、そのリーダーは社会をリードするといえる。 箇条書き リーダーは初めからリーダーとして生まれるのでない。結果を残した後に後付としてリーダーシップが帰属されている。 リーダーシップの旅は、自分→人々→社会へと段階を踏んで変化していく。 リード・ザ・セルフ(自分)の力の源になるのは、何のために行動するのか、なんのために生きるのかについて自分なりの納得感のある答えだ。自分の中で吹っ切れることが行動と継続を支える。吹っ切れがなければリーダーシップの旅は始められない。自分が「見えないもの」を見たいと考え心の底から願う気持ち、これこそがリーダーシップのプロセスを理解する上で最も重要だと考える。 心からの熱い思いがあり、何か実現したいと夢や志を真剣に語る人に、周囲の人々は喜んで手助けをしてくれる。そのときに、リーダーシップが自分から人々のものになる。フォ

やりたいことだけでなく、やらないことも明確にしよう

日記を書き始めてやりたいことが明確になってきた。 ただし、だからと言ってやりたいことをやっているわけではない。いろいろやりたいことを書くのだが、結局何もせずに、次の日の日記にも「明日は〇〇しよう」と書いてしまう。 問題は、あれもこれも書いてしまってることかなと思った。どれから手をつけていいかわからずに結局何もせずに終わってしまってる気がする。日記を書いてやりたいことがわかってきたのはいいけれど、結局実行しなければ意味がない。だから、1日やることは1つに絞り、「〇〇はやらない」というのも明確に書いていこうと思う。

どうにかこうにか日記7日間続いた

以前日記帳を買ったという話をしましたが、どうにかこうにか7日間は書きました。そのうちの3日は当日に書かなくて次の日の朝に書きましたが。たかが日記ですがなにか新しいことを続けるというのは大変ですね。 僕が買った日記はA5サイズで一日1ページ程度なんですが、書くことありませんね・・・数行で終わってしまうこともしばしば。 それだけ今まで自分と向き合ってなかったということでしょうか。外国とは言え、ネットにはつながるので常に動画とか文字とか外部の情報をとりいれて、自分と向き合う時間を作らなかったせいかもしれません。改めて自分のことを書こうとするとなんにも書けない。 それと、毎日マンネリ化したということもあるかもしれません。単調な毎日なので書くこともないのかも。 もう一つ気づいたことは、自分の字が汚いこと。客観的に自分の字を見る機会がほとんどなくなったので、改めて自分の字を見てみると汚いな〜と思います。そして、明らかに自分の字であることがわかるので、恥ずかしいですね。まぁこれは自分を向き合えたということなのかな?以外に自分のことって自分ではわからないですからね。 ということで、日記を続ける次の目標は、一日1ページ書くことです。皆さん応援してくださいね。

日雇いやったことあるやつあるあるが共感できすぎる

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僕は幾度となく日雇いやったことあるので、この 日雇い派遣やったことあるヤツの思い出スレ というのがとても共感できます。その中でも、僕が特に共感できるやつをあげていきます。 初めての仕事当日。 駅の改札前に集合することになって、 合流できるか心配になるが、 実際に駅に行ってみると気持ち悪い男が たくさんいて、あってなる。  日雇いって基本的に職場が毎日変わるんですよね。コレってかなりストレスですよ 。調べないといけないし、基本的に知らない土地なんで早めに出ないといけないし。しかも交通費でないとかクソです。 世の中には本当に底辺っていうのがいて 自分はまさに今その中にいるのだと実感する  これ、本当に思います。僕は実際に何回か泣きましたから。「仕事差別するな」って思う人もいるかもしれませんが、はっきり言って日雇いは底辺です。本当に。 筋トレになると自分に言い聞かせる ハイパー共感できます。日雇いは荷物を運ぶ単純作業が多いですから。しかも「軽作業」とか書かれてあっても、全く軽くありません。大学院卒業した後に日雇いの仕事についたときに「一体大学生活で学んだことは何だったんだ。」って思います。 ぶっちしたら一日中電話掛かってきた 出るわけないよね。これで携帯の電池切れました。 駅に集められてバスで現場に運ばれる様は まるで小学校の時に歌ったドナドナのようだった。 マイクロバスに揺られてる時って 働いてるのに、何故か社会の外にいるような そんな疎外感に包まれて仕事いくのが憂鬱だったなw   しかもどうせみんな一回しか会わない人たちなんで、場を和ませようとおしゃべりする人なんていません。 たまにふと、あのおっさん元気かなぁと 思い出す。   思うわ〜。僕に「指導」という名目で仕事させて自分はサボってたクソジジイ今どうしてるんだろう。 ピッキング作業の現場が死ぬほど退屈で そろそろ1時間経ったかなー?って時計見たら まだ10分しか過ぎてなかったっていう体感時間のズレを リアルに味わったw  某ヤマ〇〇パンでずっとパンにソーセージ刺す作業してましたが、一日が10年に感じました。 唐突に引っ越し屋に派遣された時もそこそこ楽しかった 「このプチプチくん使っていいですか?

僕が日記帳を買った理由

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ものすごく久しぶりに日記帳を買ったのである。 理由は現在の不安と堕落に満ちた生活から抜け出すためである。 色んな人が色んな所で日記を書くことを薦めている。実際僕も、西暦2000年になったきっかけに何か始めようと思い、日記を書くことを始めた。それから2010年ほどまではほぼ毎日書いていたのだが、いつの間にか殆ど書かなくなった。それから何回か引っ越しをし、実家もなくなったのでその日記がどこに行ったのかわからなくなった。 現在もたまーに日記を、メモ帳に書いている。日記帳を使っていないのは、日によって書きたい量が違うので、分量が決まっている日記帳よりメモ帳のほうがいいかなと思ったから。 しかし、メモ帳だとばらばらになってどこに行ったかわからなくなる。最近気づいたことだが、 日記というのは読み返すことに意味がある。 去年の自分がやったこと、思ったことと比較して自分がどう変わったかを確認するのが日記なので、いつ何をやったかがわかりやすい日記帳のほうがいいと思い日記帳を買ったのである。 「日記帳を買った」とは言ったものの、実は日記帳が見つけられなくてページ数がしっかり書かれてあるノートを買った。 今日から一日1ページきっちり書いていくつもり。書かなかった日はページ数を開けていこうと思う。 僕はこのブログもほぼ毎日書いていて、それが日記の代わりになりそうだけど、やはり自分のためだけに書く日記とはちょっと違う。やはりブログというのは人に見せるのが前提なので。イメージで言うと、コーディネートした服を着た自分を見せるのがブログで、服を選ぶ段階が日記かな。わかりにくいかな。 しかし、このノート値段を見ずに買ったけど150クローナ(2000円弱)した。高くね? ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

アンネ・フランク的な人になりたい

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連休を利用してオランダのアムステルダムのアンネの家というところに行った。アンネの家は、『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクが隠れ家として暮らしていた家。それが今は博物館になっている。そこに行って感じたことがあったので、まとめておこうとおもう。 まず一つ目は、発信しなければならないということ。『アンネの日記』は、ユダヤ人であるアンネ・フランクの一家がユダヤ人迫害から逃れるための隠れ家の生活を記した日記。実は、アンネ・フランクは明確に日記を出版しようと考えて書いていたことを博物館に行って知った。『アンネの日記』がなければ、ホロコーストの実態を知らなかった人は多くいると思うので、どんなに人類にとって重要な事があっても、発信しない限りは知られることはないなと思った。 もう一つは、知られていない孤独な人はまだたくさんいるということ。 アンネ・フランクは日記を書いたことで、今は世界中から「アンネ・フランク可哀想」って言われてる。だけど、本当はホロコーストの犠牲になった人は何百万人もいて、その中にはアンネ・フランクよりも悲惨な人はたくさんいるのだけど、その人のことは何も思われない。もっと言えば、震災で亡くなった人は、国民が黙祷したり募金したりするけど、世の中には病気で苦しんでいたり、体は不自由はしていないけど精神的に孤独な人はたくさんいるのだけど、そういう人は放ったらかされている。 だから、僕としてはそういう孤独な人のために何かしたいなと思う。そしてそれを発信して世に知らしめたいなと漠然と考えています。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

まとまっていない考え その2

一体自分はどうなりたいのか、よくわからなくなってきた。今は一応研究者としてお金をもらっているけど、本当に研究者がいいのかわからない。というのも、研究に対する情熱というものがほぼなくなったからである。僕は今の仕事が嫌いだし、家にまで仕事を持ち込みたいとは思わない。他の人は、ディズニーランドでアトラクションの順番待ちの間でも論文を読むような人だっているし。 昨日も書いたけど、旅に関する情熱はずっと持ってるけど、今のところ自分が楽しんでいるだけだから、今のところ何の意味もないと思ってる。もっと人を楽しませる方向に持って行きたいな。

何のために旅をするのか

大学生で初めて海外に行って以来、旅が好きになった。せっかく地球に住んでいるのだから、できるだけ多くのところを訪れたいと思い、ちょこちょこいろんな機会を利用して何処かに行っている。今スウェーデンに住んでいるのも、旅好きな性格が影響していることは間違いない。 旅が好きな感情が、最近増してきた気がする。通勤時間は旅に関するポッドキャストを聞き、家に帰れば旅の動画を見て、連休があればできるだけ遠くに行こうとする。このブログも、結構な割合で旅っぽい要素が含まれてる。 ただ、虚しくなることもある。僕よりいろんなところに行っている人は何万人もいるし、訪れた国の数が多くても、何の自慢にもならない。それに、いくら自分がいろんなところに行ったって、何が変わるわけでもない。椎名誠さんみたいに面白い文章が書けるならいいけど、僕にはそんな才能ないし。 なんか、何処何処に行ってきました!とかドヤ顔で言ってるのが恥ずかしくなってきた。例えばその経験を生かしてある提言を唱えるとか、事業を始めるとかすればまだ旅をする意味はあるのかもしれないけど。 なんかうまくまとまらないけど、何のために旅をするのかをもうちょっと明確化した方がいいなと思う連休前でした。

ベンチャー企業の社長に言いたいたった一つのこと

1年前の2016年4月、僕は株式会社ブラックというベンチャー企業に就職した。その話は去年のブログにもちょこちょこ書いているので、もしよかったらみてください。 当時、株式会社ブラックは僕を含めて4人。僕は新入社員でありながら、肩書きだけは主任になっていたのである。社長はトシという40歳ぐらいの男性。(たぶん)大手の製薬会社に勤めた後、ベンチャー企業を立ち上げたのだ。トシは結構変わった性格で、どうしても好きになれなかった。このブログにも、入社2日目にして「この会社辞めるわ」と書いたぐらいである。 しかし、この会社が合わなかったのは僕だけではないと思う。というのも、1年後の現在、当時いた社員全員がこの会社を辞めているからである。 そんな株式会社ブラックであるが、僕が社長のトシに言いたいことがある。それは、「お前の夢を叶えるために俺たちは生きてきたわけではない」ということだ。 ベンチャー企業は一般的に大企業よりも待遇が悪い。給料も低いし、福利厚生もない。株式会社ブラックはもちろん、待遇はほぼ底辺である。ただ、これは社長の裁量でどうにかなる場合も結構ある。つまり待遇が低いのは、社長のトシが一切待遇改善をしようと思っていないからだ。 その言い訳なのかどうかは知らないが、トシは常にこう言っていた。 「ベンチャー企業は、待遇は良くないかもしれないけど、夢を叶えられる。」 この意識高い発言に対し、僕は猛反論したい。ここで言う夢というのは、お前の夢であり、俺の夢ではない。もしトシと似たような夢を僕が持っていたとしても、夢が叶った時の手柄は100%社長のトシに持っていかれる。会社というのはそういうものだ。社員が働くのは、とにかく待遇のためなのだ。 夢を叶えられる職業でも、待遇を良くすることはできる。パイロットなどそのいい例だと思う。夢と待遇は反比例であるとは限らない。 常にトシは、"ベンチャー企業"という言葉を使えばなんでも許されると思っているが全くの間違いだ。顧客も、その会社で働く社員であっても、ベンチャー企業だから許されるものはない。「ベンチャー企業は自由だよ」とかポジティブな内容で使うのは正しい使い方だが、「ベンチャー企業は待遇低いよ」というネガティブで使うのは正しい使い方ではない。トシはそこがわかっていない

時間というものを過信していないか

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最近は通勤中にポッドキャストを聞いています。今はこの番組を聞いています。 『行け!世界遺産と雑学の旅』 http://tabitabi-podcast.com/sekaiisan/ この番組は、二人の男性が、世界遺産&その他の話をする番組ですが、とても面白いです。世代も僕と同じぐらいなのに博識で、ちょっと自分が情けなくなります。 その番組の雑学の場面で「時間と言うものを過信してないか」という話をしていました。話のきっかけは、植物が育つ要素についてでした。学校では「水・光・栄養」が3要素と教わりましたが、その他に「時間」が必要だという話でした。 しかし、逆に人は「時間」だけが重要だと考えていないかという話でした。 確かに、僕自身そう思っておりました。時間がたてば解決する、時間が経てば業績が出る、時間が経てば頭が良くなると。 実際に僕はスウェーデンに来て半年ですが、スウェーデン語は愚か、英語も成長していません。生活はスウェーデン語、仕事場は英語の環境なので、いつかできるだろうと思っても全く出来ない。学ぼうと思わなければ全く成長しないのだと感じました。 それだけではなく、ただ経験しても問題意識がなければ全く成長しません。僕は、何か自分が変わるかと思い数年前に海外ボランティアに行きました。その経験は今は活かされていないような気がします。僕以外の人をディスることにもなりますが、一緒に行ったメンバーも、海外ボランティアに行った後は普通の会社に入り、普通の生活をしている人がほとんどです。行く前は世界を変える、自分を変えるとか言ってたのに。 結局、時間がたっても全く成長しません。水も栄養も与えなければ、種は一向に成長しません。時間は必要だが十分でないということです。これから、もっと問題意識を持って、「自分は変わるんだ」という意識を持たなければいけないと思いました。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

8時間労働なら2時に仕事を終わろう

ヨーロッパでも日本でも、8時間労働が基本らしい。「8時間働く、8時間寝る、8時間自分のことに使う」という考え方はいいと思うのだけど、それで仕事の時間が9時ー6時(休憩1時間)っていうのはおかしくないか? 例えば、通勤に往復に時間かかるとする。その通勤時間は労働時間じゃないの?だって拘束されてるでしょ。たとえ本を読んでいたとしても、体は完全に自由なわけじゃないんだから、通勤時間だって拘束時間でいいんじゃないの? あとさ、休憩の1時間は拘束時間じゃないっていうのもおかしいでしょ。ほとんどの場合その1時間でどこか行けるわけでもないし、習い事ができるわけでもない。 あと、朝起きるときも、会社があるから決まった時間に起きるわけで、それって拘束時間っていうことでいいんじゃない? ということで、本当の8時間労働は、午後の2時、もしくは休憩なしで午後の1時で終わりでいいと思う。そしたらそこから寝るまでは自分の時間だし。

どうしてもSNSに子供の写真を載せる親が許せない

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何度も何度も言ってるけど、やっぱりSNS等サイトで自分の子供や赤ちゃんの写真を載せまくる親が全く理解できない。 ネットに他人の写真を載せる以上、写真を載せた親、写真を載せられた子供、そしてその写真を見る第三者のすべてが楽しくなれば一番いい。 写真を載せる親が楽しいのは自明。楽しくなければ載せないからね。義務感で写真を載せる人はいない。 次に、写真を載せられた子供が楽しいかどうか。僕は楽しくないと思う。 そもそもそんなことが理解できないくらい小さい子は、親が写真を撮るために子供の元を離れたり、子と親の間にスマホを入れられるより、親とくっついていたり親の顔を見ている方が楽しい。 もう少し大きくなると、写真を撮られるのが楽しくなるかもしれないが、親のSNSにアップされて嬉しいことは何もない。他人の親が「いいね」したところでなんとも思わないし、そもそもそんなこと伝えられない。 次に写真を見る第三者は、他人の子供を見て楽しいかどうか。僕はズバリその第三者だが、少なくとも僕の感想は全く楽しくない。コレも何度も何度も言っていることだが、他人の子供は、 全くかわいくない。 自分の子供は補正されて可愛いかもしれないが、客観的に見て、人間の赤ちゃんって可愛いか?もし可愛いというのであれば、なぜ人間の赤ちゃんを、正確に再現した人形がないんだ。いや、日本人形があるけどあれはホラーの対象になってるし。つまり人間の赤ちゃんは、客観的に見ればホラーであれ、可愛くはないのだ。 そして、子供や第三者だけでなく、子供を撮ってる親の回りにいる人たちも大変迷惑しているのである。 以前、新潟の水族館に行った時、孫と水族館に来ているおばさんがいた。そのおばさんは水槽一つひとつに「〇〇ちゃん水槽の前に立って。ハイチーズ」とか写真を撮っていたのだ。子供は明らかにいやそうだった。子供だけでなく、その近くにいた僕も大変迷惑だ。クソババァ邪魔なんだよ。水族館で子供を観察したけりゃ、水槽でも入れとけや。 つまり、子供の写真をSNSに載せるのは、その親だけが楽しいのであって、他の誰一人も楽しくないのである。まるでおっさんの自慰行為を、公園で垂れ流して楽しんでいる編出者に等しい。 しかし、なぜこんな醜い行為を世の親たちはしてしまうのか。その問いに、僕が尊敬する フミコフミオさん が適切な答

物を買ってストレスが発散されればそれでいい

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以前、グスタフスベリでマグカップを買ったという話をしました。 実は僕は全くマグカップに興味がなく、今までおしゃれな皿とかマグカップなど一切買ったことがありませんでした。友人にイギリスの皿を集めてる人がいましたがその人の気持ちが全くわかりませんでした。 それだけでなく、僕は物欲全般がほとんどないのです。経験にはお金をかけるのはわかるのですが、物を持ったとしてもどうせ死んだら全部捨てられるしと思うと、買う気が起きないのです。 最近、ホモ・サピエンス全史という本を読んでるのですが、そこにこう書かれてあります。 人々が、極個人的な欲望と思っているものさえ、大抵は想像上の秩序にプログラムされている。・・・消費主義は、幸せになるためには出来る限り多くの製品やサービスを消費しなくてはならない、と私達に命じる。・・・どのテレビのコマーシャルも、何らかの製品あるいはサービスを消費すれば人生が良くなるという、小さな神話なのだ。 簡単に言えば、ストレス発散のために何か物を買う、あるいは旅行をするというのは、ただ洗脳されているからそう感じるだけで、生物学的根拠は何もないということです。 正直、ストレス発散のために何かものを買うと言うのは、僕にはあまり当てはまりませんでした。というか、慢性的に貧乏なのでお金を使うのが怖いのでそういう行動はしませんでした。 その僕が、今回高いマグカップを買ってみました。2500円ぐらいなんで、大げさですがちょっと自分でいつもとは違う行動をしてみたわけです。 最近というか、ずっとずっと心の中でモヤモヤが消えなくて、自分はどうやったら幸せになれるんだろうかと考えております。もし、何かを買うことでそれが解消するのであればそれでいいかなと思っています。現代社会に洗脳されているのであれば、それもまたいいではないかと。 ただの2500円のカップを買っただけなのに、大げさなことを考えてみました。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

切羽詰まった時の僕の行動

以前自分から仕事くださいと言っておきながら、その仕事をしてなくて切羽詰まってるという話をしました。その後の僕の行動が、まさに切羽詰まってる時の典型的な行動だったので、ここでまとめておきたいと思います。 1、夜までは何もしない どうせ徹夜になるんだから、昼は何もせずに体力温存します。 2、お菓子を買い込む 徹夜になるんだから、なるべくストレスを軽減させようと、お菓子をたくさん買っておきます。 3、早めに風呂に入る 徹夜になるんだから、早めにやるべきことはやります。 4、とりあえずお菓子食う 飴とムチがあるとすれば、僕は飴から自分に与えます。 5、目覚ましを朝四時にセットして寝ます。 なんと、何もせずに寝てしまうのです。しかも夜九時とかに。いつもより早い時間。でも眠たい目をこすりながら作業するより朝めちゃくちゃ早く起きて作業した方がいいしね。 6、四時に起きるも二度寝 目覚ましがなるので一応四時には起きる。だが真っ暗なので、四時も五時も一緒でしょと思いまた寝る。そしていつもの朝を迎える。 はい、これです。長々と書きましたが、要約すると「切羽詰まったらお菓子を食べいつもより早く寝る 」ということになります。これが有能と無能の違いなんだろうな。

最高にクズな僕

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よくこのブログで意識高い奴らを叩きまくってますが、何よりもクズなのは僕です。 僕は今の職に満足しているわけではありません。「スウェーデンまで行って何言ってんだ」と思われるかもしれませんが、スウェーデンに来たのは、以前の株式会社ブラック(このブログ4−8月を参照)よりもマシだったから変わっただけです。ベストではなくベターなのです。 「んじゃベストな仕事に就けばいいじゃん」って思われるかもしれませんが、能力のない人間にはとても無理な話です。おまけに僕は能力がない上に怠け者ですからどうしようもありません。 怠け者な僕ですが、それでも極たまに頑張る時があるんです。以前上司に「こういうことがしたい」と提案したら、上司は快くその仕事を僕に与えてくれたんです。 とても喜ばしいことですが、その仕事は副業的なもので、本業の合間や家でやる作業なのです。もうおわかりかもしれませんが、怠け者の僕はろくにその副業をやりませんでした。 すると、ある時上司から「あれ、どうなった??」と言われました。当然ですね。 僕「あ、、、金曜に資料見せます」と言いました。 つまり明日です。 いやー、終わってないよ。見せるもん無いよ。 ということで今泣きそうになりながらやってるんですが、いくらどうがんまっても24時間以内に終わらないものがあるんですよね。 ってか、自分でコレやりたいって言っといて、やらないってどういうことなの? 馬鹿かよ。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

国籍とかいう既得権

僕が海外に来て最大の懸念だったビザ。ネットを見てみると、ビザでヒヤヒヤしている人が結構多いことに気づいた。 三ヶ月以上外国で働くためには当然労働ビザが必要。ビザというのは会社マターではなく国マターなので、就職の内定が出たからといってビザが下りるとは限らない。ビザが下りなければ、失職になるので本人にとっては相当なダメージになる。 これが気になって僕はビザの承認が下りるまでは本当に寝れないぐらい心配だった。 周りの同僚にビザのことを聞いたら、驚くべきことを知った。EUに加盟している国はEU内で働くときにはビザが必要ないらしいのだ。僕はこの時正直に「ヨーロッパに生まれてきやがってこのやろう!」と思った。 ただよく考えると、日本国籍も世界からみると相当な強権力。隣の国の中国だったらどこに行くにもビザが必要なのに、日本国籍だとほとんどの国はビザなしで旅行ができる。 僕は数年前に青年海外協力隊でタンザニアに行ったけど、それは僕がただ日本にたまたま生まれたから支援する側になっただけで、能力があったわけでもなんでもない。シリアの難民も、難民自体は何も悪くはない。 生まれる場所は選べないのだから、それによって人生が左右されてはならないというのが僕の考え。でも実際は違う。日本に生まれたら、その人がたとえ極悪人だとしても自動的に日本という会員制クラブに入れる。本当は、「日本語検定3級以上で、税金を月に3万円払える人は誰でも日本に住める」としたほうが公正だと思う。ただ実際はそうではない。 そんなこと言ってもこんなポンコツの僕にはどうしようもできないけど、僕は今日本国籍を持っているというのは事実なので、その権力はフル活用しなければ損だとは思っている。そして、これは綺麗事かもしれないけど日本国籍という強力な既得権益を持っている以上、権力を持っていない人たちよりも苦労をして、そういう人たちを支援したいと思っている。でもなかなかできないんだよなぁ。

仕事で本名を使う必要はないんじゃないか

初対面の人に、「まささんって○○なんですね!」って言われたことがある。その人は参加者全員をネットで検索したらしくって、僕があることでネットに載っているのを見たらしい。 別に悪いことじゃないのでいいんだけど、なんかちょっと気持ち悪い。というのは、場所や立場が変われば、見せたい自分っていうのは変わるわけで、違う分野にいるときの自分はなるべく見せたくない。 とある本に、「分人」という考え方が書かれていた。1人の人間は分けることのできない個人(Individual)ではなく、幾つかの分人(Dividual)の集まりだと。僕はそう思う。 例えば、仕事の中の自分と、家庭にいる自分と、渋谷のキャバクラにいるときの自分は全く違うだろう。だから、Facebookに一人でも職場の人間と友達になると休日に遊びに行ったこととか急に書きづらくなる。 だから、仕事ではわざわざ本名を使う必要はないんじゃないかなって思う。今の世の中、メールに名前が載ってると、検索してみたくなるという人は結構いるわけだし。 今の社会は、メールアドレスがそういう意図で使われている。会社に入ると、職場のメールを作らされ、会社を出るとメールアドレスは使えない。メールアドレスは「職場にいるときのAさん」という考えで作られている。だから、それと同じように、職場ごとの名前っていうのがあってもいいんじゃないか。 このブログも、本来は実名でやろうと思っているのだが、ブログを書いている自分っていうのは、僕の分人の中の一つで、職場にいる自分とは違うものだ!と思うと、なかなか実名ではかけないでいる。

理想と現実を行き来する

トランプが時期大統領に受かったのは、政府の綺麗事に国民が辟易した結果だとみんな言っています。 しかし、8年前は空前のオバマブームでした。パチンコ屋ですら、オバマの写真を使って「Yes we can!」とか広告を作ってたぐらいですから。実際にあの時はすごかった。僕は高校まで、アメリカの大統領はWASPしかなれないと教わったため、初めての非白人が大統領になったときはベルリンの壁崩壊レベルのことだと思いました。挙句にスマートな体で迫力のある演説をし、核廃絶を訴えノーベル平和賞をもらうなんてまさに映画のような出来事でした。 でもあの時理想を求めていたアメリカは、8年後にはあっけなく「綺麗事では飯は食えない!」みたいなことをいい出した。オバマもアメリカっぽいし、トランプもアメリカっぽいけど、これはよく考えると人類はすべてそういうもんなんでしょう。 そもそも、理想と現実っていうのはお互いに正しいのだけどそれが故に、相容れないものなのかもしれない。 世界の宗教は大きく一神教と多神教に分かれるけど、一神教は理想的、多神教は現実的な考え、といえます。 例えば、ブッダの毒矢の例えにこういうのがあります。 例えば、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や家族は医者に見せて早く矢を抜き取ろうとする。しかしその本人が『矢を射た人はどんな身分か、何という名前か、どういう苗字か、背が高いか低いか中くらいか、肌は何色か、どこに住んでいるのか、それが分からないうちは矢を抜くな』と言ったらどうなるか。その人はそれを知らないうちに死んでしまうだろう。君が言っているのもそれと同じことだ。その答えを知る前に人は死んでしまう。 コレを見ても分かるように、仏教は非常に現実的です。「右の頬をぶたれたら左の頬を出しなさい」なんて言ってるキリスト教徒は違います。 宗教だけでなく、仕事でも「理想より」と「現実より」な仕事があります。 例えば、僕が今就いている研究の仕事はかなり理想よりです。宇宙からの電磁波を数億円かけて測ったところで、人間を助けられるわけではありません。僕もしょっちゅう仕事のことを友人に話す度に「それなんの役に立つの?」って言われます。実際僕も、「こんなことせずに、カフェでコーヒーだしてお金もらうほうがよっぽど世間のためだ!」と思います。 しかし、

お金を節約しよう

生まれてこのかた、お金に悩まされなかったことはありません。 ただでさえ家庭が貧乏だったのに、学費の高い日本で博士課程まで行って、しかもポンコツの成績しか取れなかったという人間に、優しくしてくれる人なんていません。「自業自得だよ」と言われて一蹴ですよ。 どんなあがいてもお金は入ってこないし、生きている限りお金は減っていくので、とにかく丁寧に生きるしか方法はありません。具体的にいうと、外食せず、食料は食べられる量だけ買うこと。そして何事も早めに計画すること。行き当たりばったりの行動は高くつきますからね。 結婚式とか無駄としか思えないものに数百万も使ってる友人が羨ましいぜ。