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11月, 2017の投稿を表示しています

人生は意志で決まる

あるラジオで、ゲストの経歴を紹介していた。そこで感じたのだけど、人生は偶然によって色々左右されるのだが、結局意志によって方向付けられているのだと思った。 例えばその人は今は芸術家なのだが、元々は事務をやっていたらしい。ただ、高校のときは美術部で、事務をやっていた時もたまたま同僚に美大出身がいて、その影響もあって美大に進んだのだという。偶然なような気もするけど、結局その人は芸術の道に進みたいという気持ちが心の中にあって、自分の道にふさわしい事象を自分で選択して取っているのだと思う。人生は、あたかも偶然に左右されているように感じるけど、それは生活の中で起きている現象の大部分を捨て、自分の意志にあっているものを選んでいるのだ。もちろん、社会というのは自分の意志のみで決めれるものではないので、右往左往するけど、もし自分の人生に意志があるのであれば、俯瞰的に見るとベクトルが見えてくる。逆に、意志がない限り、社会に翻弄され、ベクトルは全く見えてこないのではないか。 なんか、うまく言葉にできないので、これはこれで終わり。

ストックホルムも確実にクリスマスに向かっております

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ヤキウドンを作るのだ!!

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日曜日に中華食材店に行って、うどんを買ってきた。こっちのスーパーでも、大きいスーパーであればうどんは売ってるのだが、ただの細長い小麦粉のような乾麺で食べる気がしない。しかし、この中華食材店では、ちゃんと太麺のうどんが、冷凍されて売られていたのである。 もう開けた後で申し訳ない  一年ぶりのうどん。宝のような存在だが、僕の冷凍庫があまりに小さく、うどんが入らないので長期保存が出来ない。宝なのに早く消費しないというパラドックスが起きているのである。 うどんを買ってきた時に、まず思い浮かんだのは焼きうどんである。というのも、僕は以前お好み焼きソースを買ったのだが、このソースを使う機会がなく、消費してしまうために焼きうどんにしたのである。大切な日本の食料なのにこれも結局お荷物的な存在になっている。 ほぼ使ってない。  月曜の朝に、「今日の夜は焼きうどんだ!」と叫びながら家を出て、職場を出るときも「焼きうどんを作るぞ!」と張り切っていたのだが、家に近づくに連れ、気分が焼きうどんでなくなってきた。家に帰る時には、「もう麺類は絶対に口にできない。」とまで思い、結局スーパーでチキンを買って帰ったのである。 そして火曜日、昨日の気持ちにならないように、「僕は焼きうどんが大好きです。今日の夜は焼きうどんです。」と自分に言い聞かせ、なんとか家まで着き焼きうどんを作ることが出来たのである。 韓国産うどんの焼きもの。半熟卵を添えて なんか最終的には義務感というか、まるで嫌いな食べ物を自分を騙して食べているような気もしなくもなかったがとりあえず焼きうどんは完成し、僕のスタマックに入っているのである。 しかし、うどんを一年ぶりに見たのだが、麺の太さに少々驚く。世界には色んな麺があるけど、うどんのような太麺っていうのはあるのだろうか。基本的には麺は茹でやすいように細いほうがいいのだけど、なぜうどんは太いのが正しいとされているのだろうか。 ヨーロッパの麺の代表と言えばパスタである。パスタは僕らが想像するよりも遥かに形にバラエティがあるのだが、なぜ日本の麺は「そばは細麺、うどんは太麺。それ以外は認めない!」という風潮があるのだろうか。食感や見た目で形を変えることは、食に対する思いの強い日本人には可能であると思うのになぜ麺だけ保守的なんだろう。そんなこ

100分DE名著『ラッセル幸福論』:社会を幸福にする行動をとる

ラッセル幸福論の最後。正直正しく読み取れているのかよくわからないが、僕が納得したものを書いていく。 ラッセルは幸福になるには行動をするべきであると言った。その行動はどのようなものがいいのか。まず一つは、いろんなことに興味を持つこと。興味がたくさんあるのなら、たとえ一つがダメになっても他にすがることができるから。 行動は、「社会を幸福にするような行動」であるべきである。自分は社会の繋がりなしに生きることはできず、社会が不幸であれば自分は幸福になることは困難である。だから、自分のことばかり考えるのではなく、社会を幸福にするような行動をとること。そうすることによって、自分も幸福になれる。その際には他人から賞賛されることを決して望まず、その行動自体が自分を幸福にするものであるということ認識すること。自分が行っている行動は、そこまで大したものではなく、かつ利己的な行動である。見返りを決して求めてはならない。 そして行動はなるべく「困難であるが達成可能なもの」であるものが望ましい。 ということで、『ラッセル幸福論』終了。

2010年から2017年の11月

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Google photoがたまに、「この日の思い出」っていうのを作ってくる。よく見てみると、数年前の同日の写真だったことがわかり、「去年はこんなことしてたんだ」と少し楽しかった。ということで、今回は2010年から2017年の11月後半に僕は何をしていたのか写真を載せていきたい。

一年越しの味覇

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2ヶ月に一回ぐらいはストックホルムにある中華食材店で、カレールーやらカップラーメンやら大福やら買って帰る。ストックホルムには小さいながら日本食材店もあるのだけど、そこには多分日本人がいそうなので、数秒入ったことがあるだけで殆ど行ったことない。 ストックホルムに来たてのころ、この中華食材店で味覇を買おうとしたが見つからず、店員に聞いてもわからなかった。店員が裏でネットで調べると、これは中華ペーストながら日本のものだということを知った(詳細は以下の記事)。 https://amufaamo.blogspot.se/2016/10/oriental-supermarket.html そして、今日時間があったのでその中華食材店に行ったら、なんと味覇があったのである。 新品とさり気なく書かれてあるため、おそらく最近入荷したものだろう。きっと一年前に僕が尋ねたお姉さんが注文してくれたに違いない。一年かかったけど、買えるだけでもありがとう。謝謝小姐である。 これで僕の食生活も少しは華やかになりそうである。この写真を見ると、隣の柚子胡椒も買っとけばよかった。

[IS]オーロラを見に行く2:ひたすら氷河へ

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この旅は ウェブサイト にまとめてあります。 前日の夜にアイスランドに到着したときは大雨でオーロラどころではなかったが、次のはなんとか雨は降っていない。 僕はアイスランドの観光に関してはほとんど調べていないので、朝に友人とどこに行くか話し合い、ヨークルスアゥルロゥンという湖に行くことになった。何回聞いても覚えられそうにない名前である。ここは氷河が流れ、アザラシが泳いでいる湖らしい。9月のアイスランドは寒いとは言っても、雪がふるほどではないので本当に氷河があるのか疑問ではあったが、かと言って他に行くところがわからないのでそこに向かうことになった。 レイキャビクからその湖は車で6時間ほど。普通であれば1泊2日程度で行くところなのだが、僕達にはその時間はないので日帰りで強行することになった。どちらも海外での車の運転は初めて、さらに天候は安定せず疲れる運転となった。 途中、ガソリンスタンドで珈琲とパンを買う。アイスランドは僕が今まで行った国の中で最も物価が高く、珈琲とパンだけで800円ほどした。 レイキャビクを出て少しするととんでもない絶景になるが、永遠に同じような景色で流石に飽きてくる。アイスランドは日本と同じ火山の島であるが、島自体が新しく肥沃な大地ではない。さらに寒冷な天候であり、木があまり生えないのである。野菜等もほとんどは輸入に頼らざるを得ず、EUであるとは言え、輸送費がかかるため貧弱な野菜を高額で買わないとならない。アイスランドは「世界一幸福な国」とされ、さらに自然エネルギーだけで電気を賄っているため、日本ではときどきアイスランドを見習えと言う輩がいるが、環境が全く違うため、見習ったとしても真似ることは絶対にできないだろう。 運転を交代しながら、なんとか氷河湖に着いた。最初は心配していたが、たしかにたくさんの氷が湖に溜まっていた。この湖は小さな川で海とつながっており、海から氷河がゆっくりと湖に入っていき、溜まっていくのである。よく見るとアザラシも顔を出して泳いでおり、氷よりもアザラシのほうがテンションが上ったと友人が言っていた。この氷河の間をぬって進むボートツアーもあるのだが、また5時間かけて戻らないといけないので乗らなかった。 この湖の向かい側の浜は、ダイヤモンドビーチと呼ばれており、氷がビーチに転がって

アリorキリギリス問題

あるラジオを聞いて、「キリギリスが悪者というの考え方は違うんじゃないか」みたいな話を聞いて納得した。 アリとキリギリスはイソップ童話の中でもダントツに知名度がある。今を楽しむキリギリスと、未来のために今苦労するアリ。そしてアリのほうが絶対に偉いという道徳。もちろん、あの話はかけっこでゴールする話なので、アリのほうが正しい。しかし、キリギリスを「今を楽しむもの」、アリを「未来のために今苦労するもの」と考えれば、どちらが正しいのだろう。 もちろん、未来を顧みず、どか食いしたりお金を浪費するのはよくないというのは分かる。でも、例えば貧乏画家がお金を費やして絵の具を買うのではなく、未来のために貯金するのは正しいのだろうか。「未来のために生きる」のではなく「今を全力で生きる」べきなのではないだろうか。「それ、今しかできないよね?」と言われた時に、納得して諦めるか、「今しかできないからやってるんだよ」と言い返すのはどちらが正しいんだろう。 人間以外の生物はどうなんだろう。バクテリアの場合、栄養があればあるだけ吸収して分裂する。それはバクテリアに脳が無いからかもしれない。でも、例えばリスは、未来のために食料をためたりするのだろうか。満腹の場合は取っておく事はあるかもしれないけど、少し空腹状態でも、未来のために食料をとっておくことはあるのだろうか。 南極に取り残された犬が、食べ物を与えた時に次の日のために保存しておくという話があったが、果たして他の動物も未来のために今を犠牲にすることはあるのだろうか。そして、それは正しい生き方なのだろうか。 基本的に、快楽というのは生物にとっていい行いで、苦痛は悪い行いであるように進化しているのだから、今楽しいこと、やりたいことを続けていけば幸せになると思うのだけど、今苦痛を選択するというのが正しいと思われているのはなぜなんだろう。 答えは出てないけど、僕の生き方におおきな影響を与えそうなので、この答えが出ればいいな。

プロの共通点は仕事量

プロフェッショナルの共通点は、圧倒的な仕事量だということがわかった。彼らは単に効率的に仕事をこなしているわけでも、大雑把に仕事をしているわけでもなくて、とにかく時間をかけて素晴らしいものを作っている。 少なくとも、僕は睡眠時間や休日を削ってでも、今の仕事はやりたいと思わない。できれば定時に帰りたいし、実際にほぼ定時で帰っている。休日に出勤したのは年に一回だけである。 でもこれではどうしてもプロにはなれないこともわかっている。僕はもともとスタートが遅かったので、速く走らないと追い越すことは不可能である。 それではほかの道に進むか。睡眠時間や休日を削って、さらに自分のお金まで使ってでもしたいことってなんだろう。

ロッククライミングから見る、日本とスウェーデンの国民性の違い

同僚が学会で、日本に行ってきた。彼はロッククライミングが好きで、日本でも室内のロッククライミングに行ってきたそうだ。そこで、日本とスウェーデンのロッククライミングのやり方の違いを教えてくれた。 日本のロッククライミングはかなり几帳面だそうだ。例えば、指導されるときにはちゃんとポインターでどこを持つなどちゃんと教えてくれ、登る人も決して無理はしない。 一方スウェーデンはもっとフリーであるらしい。実際僕も彼についてロッククライミングに行ったのだが、初めてでも誰にも指導されず、ロープもつけずにただ登っていった。届きそうにない突起をジャンプでつかもうとして、落ちる人もたくさんいた。 僕は、それはけが人が出た時に、日本の場合はお店が多大な非難を受けるからだと思ったが、彼はそれは日本人の特徴だと言っていた。全てのことに対して正確(Precise)であり、かつ恥ずかしいことをしたくない。たしかに、ロッククライミングでちょっと無理をして落ちると大変恥ずかしいかもしれない。 ロッククライミングから見る、日本とスウェーデンの国民性の違いでした。

人生は無常である

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僕の土日

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僕は去年から北欧スウェーデンの首都ストックホルムに住んでいる。海外に住んでいても、一年も経てばもう行くところがなくなる。更に僕は友人がいないので、休日にやることがない。 しかし、僕は家に閉じこもることが出来ない。僕は自分みたいな人のことを「引きこもり」ならず「押しこもり」と呼んでいる。僕が呼んだ所で何が変わるわけでもないのだがとにかく呼んでいるのである。 行くところが特にないときには、博物館や美術館に行くことにしている。ストックホルムには無料の博物館や美術館が数多くある。休日はなるべく仕事から離れた活動がしたいと思っており、美術館に行けばなんとなく現実離れすることができ、頭が良くなった気もする。今週は土日ともやることがなかったので、土日とも博物館に行ってきた。 まず土曜日は海洋博物館(Sjöhistoriska)に行ってきた。 ここは無料の博物館なのだが、立地的に中心地から少し離れたところにあり、今まで行ったことがなかった。 スウェーデンも海に面しており、昔はバイキングにより発展した海洋国家である。その海に関わる貿易や戦争に関したものを展示している。 正直僕はあまり興味がなかったのだが、思ったよりもいい博物館だった。 多くの砂時計も展示してあった。僕は小学生の頃砂時計と水時計が好きで、よく買ってもらっていた。男は必ず集めているものがあるとよく言われているが、僕は今集めているものはない。なぜなら、僕は今定住しておらず、いつどこに行くかわからないからである。荷物を運ぶようなお金もないので今はスーツケース一個分の荷物で生活できるようにしている。しかし、この砂時計を見た時、また集めたいと思った。 海洋博物館は1時間ほどで出て、次はその隣りにある技術博物館Tekniska museetに行く。ストックホルムには科学博物館が2つあり、1つはストックホルム大学の近くにある科学博物館、もう1つがこの技術博物館である。日本で言うと前者が上野の国立科学博物館、後者が科学未来館に似ている。  博物館自体はそこまで大きな博物館ではないが、視覚的にも面白い博物館だった。子供向けの空間が比較的多い。 日曜日は、現代博物館に行ってきた。現代博物館の行き方をGoogle mapで調べると、「2週間前に訪れました」と表示された。そ

100分DE名著 『ラッセル 幸福論』3:幸福になるには

前回の投稿で、不幸の原因は以下の二つと書いた。 1,不幸な人は、まず悲観主義である。自分で勝手に不幸な世界観を作り、そこに閉じこもる人。常に自分は世間から虐待を受け、自分は被害者だと思っている。 2,他人と比べたがり、他人の目を常に気にする人。他人の目を気にする人は、より一層世評に蝕まれる。 幸福になるには、簡単に言うとその二つを取り除けば良い。つまり、悲観主義にならず、人の目を気にしないこと。 悲観主義にならないために 1.悲観主義にならないためには、考えすぎるのではなくまず行動すること。これが出来ないから僕は不幸だと思うのであれば、まずそれをやってみる。すぐにでは出来ないかもしれないけど、その準備をする。とにかく行動すること。 2.悲観してしまう原因は宇宙から見ると瑣末でとるに足らないことであると認識すること。 他人と比べないために 1.他人と比べないためには、自分が今やっていることを全力で楽しむこと。例えば国内旅行している自分は海外旅行をしている友達より不幸だとは思わずに今やっている旅行を楽しむこと。 2.今やっていることは、他人から拍手喝采を浴びるためではなく、思想や感情を表現したいという止むに止まれぬ感情から来るものであること。そうであれば、他人からの評価が何であれ、続けることが出来る。 なんかこう考えると、SNSってやる意味って全く無いような気がしてきた。投稿するだけならまだしも、閲覧数を気にしたり、他人の投稿を見ることは不幸につながることがわかる。

野犬が襲ってきた

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[IS]オーロラを見に行く1:レイキャビク到着

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前回のフィヨルドの旅シリーズは一旦終わったけど、実際には続きの旅。 日本から来た友人は、フィヨルドとオーロラが見たいと言っていた。当初5人で来る予定だったため、そのどちらの要望も叶えることは無理だと思っていたが、結局1人で来ることになったためココは思い切って両方行くことになった。フィヨルドはノルウェー、そしてオーロラを見るためにアイスランドに行くことにしたのである。 北の国=オーロラというイメージがある。実際に僕が持っている北欧のガイドブックは多くのページを割いてオーロラ特集を組んでいる。しかし、実際に北欧でオーロラを見るのは簡単ではない。その理由は主に二つ。1つは、オーロラを見るには、かなり北に行かないといけない。オスロ、ストックホルム、ヘルシンキとも北欧の中では南にあるため、北まで移動しなくてはならず、ほとんどの町は栄えてないため、オーロラを見る以外にやることがあまりない。2つ目は、北欧の北は天気が悪いときが多く、オーロラが見える確率はそんなに高くないらしい。ガイドブックはいいことしか書いてないが、実際にクチコミなど見てみると、オーロラを見るのはアメリカやカナダの方が圧倒的によく、北欧は全くおすすめされていなかった。 オーロラに向かない北欧だが、その中でもオーロラを見るのにふさわしい国が、アイスランドである。アイスランドは国全体がオーロラベルトの下にあり、首都のレイキャビクで見ることが出来る。オーロラが見えなくても退屈することはないと思い、オスロからレイキャビクに飛んだ。 飛行機で移動中も、オーロラ観察のチャンスらしく、必死に外を見ていたが、全く見えなかった。夜8時にレイキャビクに着き、借りていたレンタカーで空港からホステルに向かう。レイキャビクは残念ながら大雨であり、この日はオーロラは全く望めない。

[NP]フィヨルドの王道6:オスロはそこまで面白くない

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(今回の旅は ウェブサイト にまとめてあります。) ベルゲンからフィヨルドを見ながらオスロに着き、次の日は夜までオスロ観光。僕はあまりオスロに魅力を感じておらず、唯一オスロでやりたいことは、ムンクの『叫び』を見ることだけである。 朝、友人が換金すると言って先に外に出ていった。ノルウェーもほぼクレジットカードが使えるのだが、残念ながら友人が持っていたアメリカンエキスプレスはほとんどの場所で使えなかった。僕が払えばいいのだが、友人も気兼ねしていたらしく、現金を換金しにいった。その間僕はゲストハウスに備え付けてあった洗濯機で洗濯をしていた。 換金も洗濯も終わり、街に向かう。前日は夜だったのであまりわからなかったが、オスロはストックホルムよりも暗いイメージだった。 向かうは『叫び』がある国立美術館である。途中、コンビニで朝食を食べ、国立美術館に到着した。この美術館には「ムンクの部屋」というのがあり、そこに『叫び』が飾られている。僕は『叫び』だけの特別な部屋があるのかと思ったが、ムンクの絵が並んである部屋にちょこんと飾られているだけだった。ムンクの『叫び』は、全部で5点あり、競売にかけられたパステル画の絵が約96億円という、絵画の競売落札価格として最高額であるらしい。そのくらい有名な絵なのだが、さりげなく飾られていることに、複雑な感情である。 美術館を出て、昼食を食べた。なるべくノルウェーっぽいものを頼もうとして、僕はサーモン、友人はミートボールを食べた。どちらももやっとした味である。 昼食を食べた後、友人が買い物をしたいと言い、別行動になった。僕は特にやることがないので新しいオペラハウスで休憩した。 夕方になり、これからアイスランドに向かう。その前にノルウェー産サーモンでできた鮨を食べた。本場のサーモン寿司である。 ということで、この旅はいったん終了。

ハンバーガーは想像を絶するほどうまいものはないような気がする

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最近は落ち込まないように、やりたいことはやっていこうと思っている。 外食もしたいときにしようと。 職場から帰るときに、FFlippin 'Burgersというところに行ってみた。ここは僕の通学路の途中にあって、裏路地にあるのだがいつも並んでる人気店なので気になっていた。五時過ぎに行ったのだが、ほぼ満席。6時には並んでいたのでかなりの人気店だと思う。 店内はバーのような雰囲気で、意外にもあまりハンバーガーを食べている人はいない。僕は酒は飲まないのでジンジャエールとフィリピンバーガーを頼む。 確かにうまいんだけど、もしかしたらマクドナルドの高いバーガーでも困難あるんじゃないかって感じ。ハンバーガーってうまいけど、うまいからこそびっくりすることはないよね。

シリア内戦を伝えたホーム・ページ

シリア内戦に関するホーム・ページをリンクしときます。 https://searchingforsyria.org/ja/how-can-i-help-syrian-refugees/ Googleが作っているそうで、見やすい。 シリアは元々かなりの観光国で、2010年はオーストラリアよりも観光客が多かったんですね。

他人の目を気にしなければ何をしたいか

僕が所属していた研究室から、OBたちの近況報告をまとめた返信集というのものが送られてきた。 その研究室のボス教授の息子もその研究室の卒業生で、僕の先輩である。その息子は「親父を超えるには同分野に進むしかない」と発言しており、アメリカで研究していた。いわば研究分野のサラブレッドである。 その息子の近況報告を見ると、研究はやめており、今は田舎で研究とは違う活動をしているらしい。ホームページのリンクがあり、それを見ると、同僚に「研究が面白くなさそうだね」と言われたのがきっかけだそうだ。 僕も何回もこのブログで書いているけど、本当に僕は研究が好きなのかいまいちわからない。今やっている研究が楽しくないのは事実だけど、だからと言って他の研究が楽しいのかどうかは疑問である。ただし、博士号まで取って研究分野から離れるのはどうもドロップアウトするような気分になる。しかし、親が教授で自身も早くから研究を志していた先輩でも、進路を変えることがあるんだということを知った。 以前書いたラッセル幸福論のまとめの中で、不幸の原因の一つは過度に他人の目を気にすることだとまとめた。確かに僕は、研究から離れること自体ではなく、そのことを人に見られるのを恐れているような気がする。 もちろん、働くというのは自分一人ではできないし、お金も動くのでいろいろな制約はある。しかし、もし、誰が何というかなんて全く気にしなければ、いったい僕は何をしたいのだろう。もうしばらく考えてみよう。

100分DE名著 『ラッセル 幸福論』2:不幸の原因

幸福になるには、まず不幸の原因を知らないといけない。不幸というのは、外部によって与えられるものではなく、自分自身が作り上げているもの。ラッセルは不幸の最大の原因として、「自己没頭」を掲げた。自己没頭とは自分の内にこもってしまうこと。この本では、「罪人」「ナルシシスト」「誇大妄想」の3つのタイプ、さらに8つの具体的な不幸の原因をあげているが、あまりわかりやすいものではなかったので自分なりに簡潔にまとめる。 主に不幸の原因は以下の2つ。 1,不幸な人は、まず悲観主義である。自分で勝手に不幸な世界観を作り、そこに閉じこもる人。常に自分は世間から虐待を受け、自分は被害者だと思っている。 2,他人と比べたがり、他人の目を常に気にする人。他人の目を気にする人は、より一層世評に蝕まれる。 不幸というのは自分自身が作り上げているものだから、習慣や考え方を変えるだけで、不幸から脱出することが出来る。 続く・・・

フォトグラフィスカ3:なぜSNSの写真は面白くないのか

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以前の記事で、難民の生活などが写ったメッセージ性のある写真を紹介したけど、その他はほぼアーティスティックな写真である。 写真は絵とは違い、誰も撮ることが出来る。しかも今はスマホがあるので、日常的に撮ることができ、同時によく他人の写真を見る機会が多い。典型的なものではInstagramとか。だから、わざわざ博物館に行かなくても面白い写真を手軽に見れるはずなのに、なぜああいうSNSにあげる写真ってみんな面白くないんだろう。僕はInstagramをやっていたときはちゃんとした一眼を持っている人もいて、ちゃんとした写真をあげているつもりなのだろうけど、全く面白くなかった。これは僕自身にも言えて、僕は写真を撮るのが好きなのだけど、この博物館にきて、いかに自分が面白くない写真ばかり撮っていたかわかる。 もちろんプロの写真とアマの写真を比べているので違いはあるのは明らかだけど、一体何が違うんだろう。機材の問題では無い気がする。 プロとSNSに写真をあげるアマの違いは、他人に癒やしを与えようとしているかどうかの違いなのだと思う。プロはもちろん他人がどのように感じるかを考え、SNSに写真をあげる素人は、ただ自己顕示欲を満たそうとするだけ。それが写真の面白さに影響を与えているんじゃないだろうか。 別に写真を撮ってアップするのは個人の自由で、勝手にすればいいのだけど、もしSNSがただの自己顕示欲をみたすものならば、別に他人の投稿なんて見なくていい。 僕自身も、写真を撮るのは好きだけどもうちょっと人に見られるのを意識して写真を撮ってみようかな。 兎にも角にも、このフォトグラフィスカはとてもいい博物館だった。

フォトグラフィスカ2:立派なレストラン

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以前紹介したフォトグラフィスカ、3階建てだけど、3階はほぼカフェ、レストラン、バーだった。博物館のカフェだけど、かなりちゃんとしてる。 海に面しており、ガムラスタン、ユールゴールデン島が見え、景色としては一等地だと思う。今回僕は珈琲しか注文しなかったが、もし夕飯を食べてなかったらレストランで注文したかった。 バーもあって、しかも夜1時まで開いてるのでおすすめです。ただこのレストランに来るには、博物館の入場料(135kr)を払わないと入れないのでちょっと割高かも。

フォトグラフィスカ1:難民の写真を撮る人たちの気持ち

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フォトグラフィスカに行ってきた。 フォトグラフィスカというのは、スウェーデンの首都ストックホルムにある写真博物館。ガイドブックにもよく載ってるメジャーな博物館の1つ。ただ、無料の博物館も多い中、135クローナ(1700円程度)と少々高いので今まで行かなかった。 写真博物館と聞くとそこまで大したことないような感じがするが、この博物館は立派な建物で、しかも立地もかなりいいところにある。そして何より、夜1時まで開いているのである。花金でも夜7時になると人がいなくなるストックホルムでは驚異的な開館時間である。 いくつかのテーマに分かれているが、一番最初はシリアの難民や戦争の悲惨さを撮った写真が飾られていた。 写真に限らず、情報は受け手に二つのものを与える。1つは受け手が知らなかった知識や価値観、もう1つは癒やしである。この写真は前者の要素が強い。 たしかに、戦争や難民の悲惨さは普通に生活していては感じることが少ない。その点ではこういう写真は必要であると思う。ただ一方で、難民などが見世物のようになっているような気もする。 写真家はどのような気持ちで写真を撮るのだろうかとも思う。悲惨な風景であればあるほど、写真としては映えるが、より写真を撮られる側とは離れてしまうような気もする。「この写真撮ったら注目されるぞ」とか思いながら写真を撮るのだろうか。それでもいいような気もするし、ダメなような気もする。

考えのリンク集

このブログは僕が思いついたことを断片的に書くもので、いつか断片的なものを組み合わせて1つの大きな文章に出来ればいいと思っている。 その前段階として、ブログで書いた僕の考えのリンクを、ホーム・ページに載せた。 https://sites.google.com/view/masakazu-ishikawa-rinen/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0?read_current=1 まだ色々メチャクチャなんだけど、これから似たような考えをまとめていこうと思う。 タイトルだけ見て分かるのだけど、基本的に僕は常にネガティブなのだなぁと思う。これからはもうちょっとポジティブに考えていきたい。

100分DE名著 『ラッセル 幸福論』1:幸福は獲得するものである。

Kindle unlimitedをやめて買った2冊めの本。『ラッセル幸福論』は僕の中のベスト10冊に入っているのだけど、その本を紹介したNHKの番組本。どういう紹介をされているのか興味があって読んでみた。 正直言うと、本家の『ラッセル 幸福論』を買ったほうが100倍いいと思う。だけどせっかく買ったので読んだ分だけ大切なところをまとめておこうと思う。 まずこの本の原著のタイトルは ”Conquest of Happiness”。直訳すると「幸福の獲得」。このことからも分かるように、幸せというのは、待っていても勝手に来るものではなく、自分で積極的に獲得していかなければならない。能動的に行動することによって幸福は得られるものであるらしい。 たしかに、僕は今幸福ではないけれど、そのことに嘆いていただけでは全く幸せにはならない。だから、これからは能動的に幸福になるように行動していこうと思う。

[NP]フィヨルドの王道5:フィヨルドの旅

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(今回の旅は ウェブサイト にまとめてあります。) 船でフロムに着き、ココでも1時間ほど休憩がある。腹は減ってないが退屈であるのでバーに入った。ここは地ビールを製造しており、5種類のビールを少量飲めるセットを注文した。僕自身はほとんど酒は飲めないが、相方は酒が好きなので注文する。このビールの一種類は日本の麦芽を使用しているらしい。ココでも日本のものが使われているとは。日本の食に対する貪欲さが分かる。 フロムから鉄道に乗る。先ほどは海の上を漂っていたが今度は山を登る。中々忙しい旅である。この鉄道の一番の見所は滝。滝のそばで鉄道が止り、みんな外に出る。するとBGMがなり、滝のそばで赤い服の女性が踊っているのである。この女性は鉄道が来る度に踊っているのだろうか。鉄道が来ない時間は1人で寂しく小屋で待っているのだろうか。 ミュダールに到着し、いよいよ最後の鉄道に乗る。夕日がきれいなのである。4人席で、目の前はおそらくアメリカ人の夫婦なのだが、女性の方が景色を見るたびに「Oh my god!」と言っていた。アメリカ人は本当にOh my godと言うのである。その間、友人は殆ど寝ていた。 夜10時、長い旅が終わりオスロに到着した。今回取ったホテルは街から近いので歩いてホステルに向かう。途中焼きそばのようなものがセブンイレブンに売っており、買ったが800円ほどで驚いた。

同窓会の近況報告

僕が大学生のときに所属していた研究室は毎年12月に忘年会をやっていて、その案内は返信用はがきで送られてくる。その返信用はがきには、近況を報告するコメント欄があり、その近況報告をまとめた返信集が同窓生に送られてくる。昨日、その返信集がメールで3年分まとめて送られてきた。どうやらここ3年は送るのをサボっていたらしい。 同窓会の案内自体、僕はほとんど返信することが殆どないのだが、2015年だけは返信していたらしく僕の近況報告も載っていた。自分の文章、特に手書きを見るのは恥ずかしくてとても見れない。 僕の同級生など、知り合いの近況報告も載っている。大体は結婚して、子供が出来たなどのはなしである。僕と同級生と1つ上の先輩が結婚していて同じ苗字になっていた。僕も研究室にいた時に、1つ下の後輩と付き合っていたのだが、その人の文章はなかった。もともとその人とはFacebookでつながっていたのだが、その人が別の男と付き合って結婚した時に見るに耐えられず、友達をやめてブロックしてしまった。 似たような話だと、もともと付き合っていた女がたまたまLINEで友達候補として出て、そのサムネイルが子供の写真で傷ついたという友人もいた。別にその女も全く悪いことはしていないのだが、勝手に男というのは傷つくのである。こんな男はSNSなどやらないほうがいい。

金曜の夜

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今週もいいことがなかった。最近はお金を使うことがストレス発散になるのではないかと思い、買いたいものは買い、食べたいものは食べるようにしている。 金曜の夜はどこか行こうとするが1人では中々行くところもない。ストックホルムに数少ないフードコートがあり、そこでステーキを食べる。想像以上に量が多くて食べきれない。 その後はカフェでエスプレッソを飲む。結局あまりいい日ではなかった。