投稿

ラベル(考え)が付いた投稿を表示しています

喜んで自由の刑に処されよう

僕が以前友人と僕が感じている苦しみというのは、サルトルが言っている「自由の刑」に処されている状態だということがわかった。 自由の刑というのは以下のことである。 社会が発達して、誰でも生きられる時代が来た。その結果、何をしてもいいことになる一方、何が正しいのかは示されないし、未来にならないと何が正しいか誰にもわからない。未来になり、もし自分の選択が間違っていた時には「あなたが選んだのだから責任はあなたにある。」と責任を突き付けられる。 他の国のことはよくわからないのだけど、日本の社会はある程度政府が「これが正しい」と示すことで国民は自由の刑から逃れている。高校を卒業したらすぐに大学に入り、卒業と同時に終身雇用の会社に入る。落ち着いたら結婚し、子供を産んで家をローンで買う。一見縛られているように思えるけど、自由の刑からは逃れられる。 社会に縛られるか、自由の刑に処されるか。どちらがいいとも悪いともないけど、やっぱり僕は後者を選択することに決めた。社会に縛られるのでは、生きている意味が感じられない。たとえ僕の選択が間違って社会のお荷物になったとしても、きっとご先祖様は褒めてくださるはずだ。喜んで自由の刑に処されよう。

自分が死んだ後でも、社会を幸福にし続けられる仕事をしたい

以前『ラッセル幸福論』のまとめとして、以下の二つの行動を起こすときに人は幸福になれると書いた。 一つ目は、他人の目を気にせず、本当に心から自分がやりたいと思うことをすること。もう一つは自分の中に引きこもらず、社会を幸福にするような行動を起こすこと。 僕はどのような仕事をしたいか。僕は今研究者であり、同時に芸術家をとても尊敬している。研究者と芸術家に僕が心を惹かれる理由がはっきりとしてきた。 それは、それらの2つは「自分が死んだ後でも、社会を幸福にし続けられる」からである。 例えばコーヒーショップの店員は、今の僕よりもはるかに社会を幸福にしている。だけど、その店員が存在しなければならない。医者も病気を治せるが、その医者が死ねば病気を治せない。でも、薬を作る研究者は、その研究者が死んだ後でもその薬で人を治すことができる。ピカソの絵は、ピカソが死んだ後でも人を魅了することができる。 僕は、コーヒーショップの店員よりも研究者のほうが偉いとは決して思わない。コーヒーショップの店員は必要だが、研究者は必要でないとすら思っている。国家が研究や芸術のために数百億円費やすのであれば、その分福祉や教育に回せという批判があれば、それを受け入れるべきだと思う。しかし、僕がやりたいことは自分が死んだ後でも、社会を幸福にし続けられる作品を作ることなのだ。だから批判を怖がらず、未来を怖がらずに進んでいこう。

他人の目を気にしなければ何をしたいか

僕が所属していた研究室から、OBたちの近況報告をまとめた返信集というのものが送られてきた。 その研究室のボス教授の息子もその研究室の卒業生で、僕の先輩である。その息子は「親父を超えるには同分野に進むしかない」と発言しており、アメリカで研究していた。いわば研究分野のサラブレッドである。 その息子の近況報告を見ると、研究はやめており、今は田舎で研究とは違う活動をしているらしい。ホームページのリンクがあり、それを見ると、同僚に「研究が面白くなさそうだね」と言われたのがきっかけだそうだ。 僕も何回もこのブログで書いているけど、本当に僕は研究が好きなのかいまいちわからない。今やっている研究が楽しくないのは事実だけど、だからと言って他の研究が楽しいのかどうかは疑問である。ただし、博士号まで取って研究分野から離れるのはどうもドロップアウトするような気分になる。しかし、親が教授で自身も早くから研究を志していた先輩でも、進路を変えることがあるんだということを知った。 以前書いたラッセル幸福論のまとめの中で、不幸の原因の一つは過度に他人の目を気にすることだとまとめた。確かに僕は、研究から離れること自体ではなく、そのことを人に見られるのを恐れているような気がする。 もちろん、働くというのは自分一人ではできないし、お金も動くのでいろいろな制約はある。しかし、もし、誰が何というかなんて全く気にしなければ、いったい僕は何をしたいのだろう。もうしばらく考えてみよう。

現代アート作品の価値はどうはかるのか

イメージ
ポンピドゥー美術館 ヨーロッパに来て、日本にいるときに比べ美術館や博物館によく行くようになった。同時に現代アートをよく見るようになった。 僕は、正直現代アートというのがよくわからない。美術館という非日常的な空間自体は好きなのだが、作品自体はわけがわからないものを作っているとしか思えない。一体作品がどうすごいのかよくわからないのである。 すごいとかそういう評価自体ないのだろうか。そんなことはないはずである。なぜなら美術館のスペースは決まっており、展示される作品は決まるわけなのだから、かならず美術館側は作品を選ばないといけないのである。その時に、どういう基準で作品を選んでいるのか僕にはよくわからない。 現代・古典限らず、基本的には作品の価値は以下の2つで決まってくる。 一つは作品自体が現実に近いかどうか。絵が上手いか下手かの基準は、いかに現実に近いかどうかである。彫刻もしかり。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど、古典的なアーティストの基本は絵が上手いかどうかで作品が評価された。 モナ・リザ。純粋な絵の素晴らしさの他に作者や絵そのものの知名度で作品の評価は変わる。 もう一つはその作品の背景。例えば作者やその時代など。作者によって作品の価値は変わる。現代は、油絵の凸凹まで再現できる技術があり、ほぼ本物と見分けがつかない。その点においては、作品自体の素晴らしさは変わらないのだけど、やはり有名な人本人が実際に触って描いた作品の価値には遠く及ばない。人工知能を使って、もしレンブラントが生きていたらこういう絵を描いただろうという絵が発表されたが、それでもレンブラント本人が描いた絵には遠く及ばない。ピカソが描いた絵も、もしピカソが描いてなかったら必ず捨てられていただろうという絵がたくさんある。 ピカソの絵。オスロ美術館にて。 以上の二点は、現代アートの価値には関わってこない。例えば、現代アートは現実に近いものを作らず、逆に現実から遠いものを作っているからである。作品の背景も、現代であればあるほど価値はない。現代アーティストのほとんどは無名なのだから、作者自体の価値はほぼないのである。 ストックホルム現代美術館 何か、現代アートを説明してくれる人や本があればいいのだけど、少なくとも美術館の説明を読んでいるだけではさっぱりわからない。

やりたいことをやって生計立てられてない人は劣ってる

よく、「やりたいことをやれ」って言うけど、 やりたいことをやっていて生計をたれられない人と、別にやりたくないことをやって生計をたてている人なら後者のほうが正解だと思う。 生物学的には、生きることが生物に与えられた使命で、社会に生きている人間はお金を稼げること=生きること。色んな生き方ってあるけど、別に自分で自立して生活できないレベルって生きてるとは言わないと思う。やりたいことをやって借金とかする人、例えば親の金で世界一周とかする人ってやっぱり人間として劣ってると思う。 僕自身も、奨学金という借金をして博士号を取った。その理論だと、大学を卒業して普通に働いている人に比べてかなり劣ってるな。

幸せだから人を祝えるのか、人を祝うから幸せになるのか

基本僕のLINEにはメッセージは来ない。 たまにくるとしても、結婚式の案内や新郎・新婦へのメッセージがほとんどである。 僕はいまスウェーデンに住んでいるので、結婚式や二次会は即答で断ることが出来るのだけど、困るのがメッセージである。 僕はどうしても結婚した相手に祝う気持ちがないので、なんと言っていいのかわからない。別にこちらとしては、他人が幸せになろうが不幸せになろうが関係がない。友人ではあるにしても、別に結婚したからと言って友人ではなくなるわけではないので何の感情もないのである。 結婚式のメッセージが典型だけれど、僕は他人を祝うことが出来ない。その理由としては、幸せなのに、さらに祝って幸せにする意味がわからないのである。 なぜそう思うかを自分なりに考えてみた。そう思うのは、僕自信が幸せでないという根本があるからだろうと思う。例えば、結婚することが幸せであるとする。ならば、結婚した友人は幸せである。一方結婚していない僕は不幸せである。不幸せな僕が、幸せな友人を祝うと、友人は更に幸せになるが僕は別に幸せにならない。貧富の差が広がるだけなのである。 ただ、僕の考えは間違っているのかもしれない。多くの自己啓発本では、他人を幸せにすることで自分も幸せになると書かれてある。有名な名言としてこういうのもある。 幸福は香水のごときものである。 人に振りかけると、自分にも必ずかかる。  つまり、他人を祝うことで自分も幸せになるのかもしれない。ただ、それってどうやればいいんだろう。

いよいよスウェーデンに住んで一年経った時に思うことを書きます (スウェーデンの生活)

前回の記事 で酒を飲んでよっぱらって、スウェーデンに住んだ振り返りをするとか言って結局寝てしまったので、改めてまた書きます。 余談だけど、歳を重ねるに連れ、振り返りというのをやらなくなってくる。生活があまり劇的に変わらないとか、振り返っても何も変化しないということを知ってやらなくなってしまうのかもしれないが、自分と向き合うことは大切だと思うので、何かの節目を自分で作って振り返っていきたい。 ただ、スウェーデンに住んだことによる変化というよりは、今の自分の考え(変わったかどうかは置いといて)を徒然と書いていこうと思う。 ただ、長い文章を書く体力がないのでこまごまと書く。そもそもこのブログのタイトルはtiMElineというタイトルで、長い文章を書くというよりこまごまと書いて、後でまとめるタイプなので。 スウェーデンの生活 一般的な生活について。スウェーデンと言ってもストックホルムだけど、全く問題ない。電車は来るし、夜に1人で歩けるし日本食材も買えるし。ただ、だからといってスウェーデンにずっと住みたいとは思わない。僕にとってはスウェーデンは世界200カ国あるうちの1つなので、ここに定住するよりもっと他のところに行きたい。 続く・・・

僕が削除したfacebookの友達を紹介するよ

イメージ
一応facebook, twitter, instagramのアカウントはあるのですが、facebookの方はほとんど何も手を付けていません。最終的にはfacebookのアカウント自体を削除しようと思っているのですが、フィリピンで知り合った可愛い女の子の連絡手段がfacebookだけなので、そのせいで削除できないでいます。 ただ、「こいつはもう繋がらなくてもいいな」と思う人はどんどん友達から削除しています。現在友達は半分ぐらいになりました。今回は、僕がどういう友達を削除していっているか、紹介します。 仕事関係の人 facebookって基本的に遊んでる内容を書くのだから、仕事の人に見られたくはないですよね。人間って状況や立場で行動も代わるんだから、facebookに出す遊んでる自分は仕事をしている自分とは違うのです。 意識高い人 いますよねー。「海外で〇〇の会議に日本代表として出席させていただきました。」とかいうやつ。それ、お前がすごいんじゃなくて会社がすごいんだからなって思います。 妻・子供の写真をやたらあげる人 何度も何度も何度もこのブログで言ってるけど、僕は君と友達なんであって君の妻や子供と友達じゃないんだ!と言いたいです。正直に、他人の妻って全く興味ないですよ。せめて犬やネコとかにしていただけないかな。 ありがとうっていう人 すいません、よくわからないですよね。詳しく言うと公開の場で特定の人に感謝する人です。僕のすっごく嫌いなタイプです。「今日は母の日。私を産んでくれてありがとう。」って直接言えやこの野郎! 政治的な発言をする人 安保法案のときぐらいからですかね、政権や政党を批判したり、直接ではないにしろそういうサイトをリンクする人が増えてきましたが、そういう人はソッコーで削除です。そういう人って、どんなに論理矛盾してても、相手が悪いと決めつけているので全く話が通じませんので。 LINEでつながっている人 意外でしょ?僕のLINEでつながっている人はギリギリ2桁なんですが、そういう人は頻繁に連絡を取り、仲がいい人ってことなんです。でも、そういう人は逆にfacebookで友達削除しました。一番の要因は、facebookがなくてもLINEで連絡とれるから。 元カノ はい、コレは1人です。もちろん元カノなので、f

自分探しを止める方法

今の自分は本来の自分じゃない、自分は今やりたいことをやっていないと僕は今そう思っている。それは僕だけでなく多くの人がそう思っていることがわかった。 その自分探しをしている状態を止める方法も教えてもらった。 それは結婚して子供を作ること。そうすれば自分のやりたいことをすべて放り投げ、子供に全力を注ぐようになるらしい。 僕の同級生は、だいたい半分以上がもうすでに結婚してるけど、確かにそれはわかる。結婚する前は、いろんなことをしたいとか言ってるけど、結婚したとたんに自分の存在を消すように何も発言しなくなる。SNSの発言も極端に減るし、あったとしても子供の話ばっかりだったりするし。 僕は今でも同じ会社にずーっといるのは自分の成長にもならないし、何よりつまらないと思うけど、子供ができたら転職のような危険な橋は渡らなくなり、なるべく自分を殺して会社に同化するようになるんだろうな。 僕としては子供が出来たとしても絶対に自分のやりたいことをやっていきたいし、探し続けたいと思う。子供がいない僕が言うと全く説得力ないけど。 でも、絶対に結婚したいし子供は欲しいよね。二兎追うものは一兎も得ずと言うけど、二兎追わないものは絶対に二兎得られないからね。

僕がまったくしっくり来ない単語5選!!!

イメージ
2017年5月30日、新たに一個追加して5個になりました。

『リーダーシップの旅』を自分なりにまとめてみる

イメージ
『 リーダーシップの旅ー見えないものを見るー 』という本を最近読んで、なるほどなと思うことが多かった。 自分なりにこの本をまとめてみた。なんか、意識高い人間みたいで恥ずかしいけど。 下にはこの本で僕がチェックしたところを箇条書きにしてます。 自分なりのまとめ リーダーと呼ばれる人は、世の中に変革をもたらしたもの。その変革とは、変革前は誰も想像できず、変革後は当然のように思われるものである。 リーダーは生まれたときからリーダーなのではなく、結果を出した後に後付けとして、リーダーとなる。リーダーは、まずは自分をリードし、次に人々をリードし、最後に社会をリードする。 まずは自分をリードする。そのためには、自分と向き合い多くのものを犠牲にしてもやりたいことを見つけ、それを実行すること。リーダーシップの旅は一歩を踏み出すことから始まる。その一歩を踏み出す原動力は利己的でもかまわない。その利己的な原動力が他人にも影響するときに、フォロワーがついてきて、人々をリードすることになる。 フォロワーとは自発的についてくる人のことであり、会社の部下のように給料のためについてくる存在ではない。フォロワーは、リーダーが真剣なほど、やりたいことが明確なほどついてくる。 リーダーシップの旅を歩むときには、手段が目的に代わってはいけない。また、組織に同化してもいけない。 リーダーの行動が最終的に社会に還元される時、そのリーダーは社会をリードするといえる。 箇条書き リーダーは初めからリーダーとして生まれるのでない。結果を残した後に後付としてリーダーシップが帰属されている。 リーダーシップの旅は、自分→人々→社会へと段階を踏んで変化していく。 リード・ザ・セルフ(自分)の力の源になるのは、何のために行動するのか、なんのために生きるのかについて自分なりの納得感のある答えだ。自分の中で吹っ切れることが行動と継続を支える。吹っ切れがなければリーダーシップの旅は始められない。自分が「見えないもの」を見たいと考え心の底から願う気持ち、これこそがリーダーシップのプロセスを理解する上で最も重要だと考える。 心からの熱い思いがあり、何か実現したいと夢や志を真剣に語る人に、周囲の人々は喜んで手助けをしてくれる。そのときに、リーダーシップが自分から人々のものになる。フォ

やりたいことだけでなく、やらないことも明確にしよう

日記を書き始めてやりたいことが明確になってきた。 ただし、だからと言ってやりたいことをやっているわけではない。いろいろやりたいことを書くのだが、結局何もせずに、次の日の日記にも「明日は〇〇しよう」と書いてしまう。 問題は、あれもこれも書いてしまってることかなと思った。どれから手をつけていいかわからずに結局何もせずに終わってしまってる気がする。日記を書いてやりたいことがわかってきたのはいいけれど、結局実行しなければ意味がない。だから、1日やることは1つに絞り、「〇〇はやらない」というのも明確に書いていこうと思う。

日雇いやったことあるやつあるあるが共感できすぎる

イメージ
僕は幾度となく日雇いやったことあるので、この 日雇い派遣やったことあるヤツの思い出スレ というのがとても共感できます。その中でも、僕が特に共感できるやつをあげていきます。 初めての仕事当日。 駅の改札前に集合することになって、 合流できるか心配になるが、 実際に駅に行ってみると気持ち悪い男が たくさんいて、あってなる。  日雇いって基本的に職場が毎日変わるんですよね。コレってかなりストレスですよ 。調べないといけないし、基本的に知らない土地なんで早めに出ないといけないし。しかも交通費でないとかクソです。 世の中には本当に底辺っていうのがいて 自分はまさに今その中にいるのだと実感する  これ、本当に思います。僕は実際に何回か泣きましたから。「仕事差別するな」って思う人もいるかもしれませんが、はっきり言って日雇いは底辺です。本当に。 筋トレになると自分に言い聞かせる ハイパー共感できます。日雇いは荷物を運ぶ単純作業が多いですから。しかも「軽作業」とか書かれてあっても、全く軽くありません。大学院卒業した後に日雇いの仕事についたときに「一体大学生活で学んだことは何だったんだ。」って思います。 ぶっちしたら一日中電話掛かってきた 出るわけないよね。これで携帯の電池切れました。 駅に集められてバスで現場に運ばれる様は まるで小学校の時に歌ったドナドナのようだった。 マイクロバスに揺られてる時って 働いてるのに、何故か社会の外にいるような そんな疎外感に包まれて仕事いくのが憂鬱だったなw   しかもどうせみんな一回しか会わない人たちなんで、場を和ませようとおしゃべりする人なんていません。 たまにふと、あのおっさん元気かなぁと 思い出す。   思うわ〜。僕に「指導」という名目で仕事させて自分はサボってたクソジジイ今どうしてるんだろう。 ピッキング作業の現場が死ぬほど退屈で そろそろ1時間経ったかなー?って時計見たら まだ10分しか過ぎてなかったっていう体感時間のズレを リアルに味わったw  某ヤマ〇〇パンでずっとパンにソーセージ刺す作業してましたが、一日が10年に感じました。 唐突に引っ越し屋に派遣された時もそこそこ楽しかった 「このプチプチくん使っていいですか?

アンネ・フランク的な人になりたい

イメージ
連休を利用してオランダのアムステルダムのアンネの家というところに行った。アンネの家は、『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクが隠れ家として暮らしていた家。それが今は博物館になっている。そこに行って感じたことがあったので、まとめておこうとおもう。 まず一つ目は、発信しなければならないということ。『アンネの日記』は、ユダヤ人であるアンネ・フランクの一家がユダヤ人迫害から逃れるための隠れ家の生活を記した日記。実は、アンネ・フランクは明確に日記を出版しようと考えて書いていたことを博物館に行って知った。『アンネの日記』がなければ、ホロコーストの実態を知らなかった人は多くいると思うので、どんなに人類にとって重要な事があっても、発信しない限りは知られることはないなと思った。 もう一つは、知られていない孤独な人はまだたくさんいるということ。 アンネ・フランクは日記を書いたことで、今は世界中から「アンネ・フランク可哀想」って言われてる。だけど、本当はホロコーストの犠牲になった人は何百万人もいて、その中にはアンネ・フランクよりも悲惨な人はたくさんいるのだけど、その人のことは何も思われない。もっと言えば、震災で亡くなった人は、国民が黙祷したり募金したりするけど、世の中には病気で苦しんでいたり、体は不自由はしていないけど精神的に孤独な人はたくさんいるのだけど、そういう人は放ったらかされている。 だから、僕としてはそういう孤独な人のために何かしたいなと思う。そしてそれを発信して世に知らしめたいなと漠然と考えています。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

まとまっていない考え その2

一体自分はどうなりたいのか、よくわからなくなってきた。今は一応研究者としてお金をもらっているけど、本当に研究者がいいのかわからない。というのも、研究に対する情熱というものがほぼなくなったからである。僕は今の仕事が嫌いだし、家にまで仕事を持ち込みたいとは思わない。他の人は、ディズニーランドでアトラクションの順番待ちの間でも論文を読むような人だっているし。 昨日も書いたけど、旅に関する情熱はずっと持ってるけど、今のところ自分が楽しんでいるだけだから、今のところ何の意味もないと思ってる。もっと人を楽しませる方向に持って行きたいな。

何のために旅をするのか

大学生で初めて海外に行って以来、旅が好きになった。せっかく地球に住んでいるのだから、できるだけ多くのところを訪れたいと思い、ちょこちょこいろんな機会を利用して何処かに行っている。今スウェーデンに住んでいるのも、旅好きな性格が影響していることは間違いない。 旅が好きな感情が、最近増してきた気がする。通勤時間は旅に関するポッドキャストを聞き、家に帰れば旅の動画を見て、連休があればできるだけ遠くに行こうとする。このブログも、結構な割合で旅っぽい要素が含まれてる。 ただ、虚しくなることもある。僕よりいろんなところに行っている人は何万人もいるし、訪れた国の数が多くても、何の自慢にもならない。それに、いくら自分がいろんなところに行ったって、何が変わるわけでもない。椎名誠さんみたいに面白い文章が書けるならいいけど、僕にはそんな才能ないし。 なんか、何処何処に行ってきました!とかドヤ顔で言ってるのが恥ずかしくなってきた。例えばその経験を生かしてある提言を唱えるとか、事業を始めるとかすればまだ旅をする意味はあるのかもしれないけど。 なんかうまくまとまらないけど、何のために旅をするのかをもうちょっと明確化した方がいいなと思う連休前でした。

沈んだ金曜日

イメージ
金曜日の夜は、他の夜よりも気持ちが浮いているか沈んでいる場合が多い。どちらかと言うと、沈んでいるときのほうが多いかもしれない。 沈んでいる一番の理由は端的にいうと孤独感や、将来の不安など一般的なこと。日本の普通の企業に就職しとけばよかったかな・・・とも思ったり。 そういうときは、なるべく日常と違うところに行ったほうがいい。ということで、博物館に行ってきた。 ここは、地中海博物館です。大きくないですが金曜は夜遅くまで出来るので、いいですね。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

ベンチャー企業の社長に言いたいたった一つのこと

1年前の2016年4月、僕は株式会社ブラックというベンチャー企業に就職した。その話は去年のブログにもちょこちょこ書いているので、もしよかったらみてください。 当時、株式会社ブラックは僕を含めて4人。僕は新入社員でありながら、肩書きだけは主任になっていたのである。社長はトシという40歳ぐらいの男性。(たぶん)大手の製薬会社に勤めた後、ベンチャー企業を立ち上げたのだ。トシは結構変わった性格で、どうしても好きになれなかった。このブログにも、入社2日目にして「この会社辞めるわ」と書いたぐらいである。 しかし、この会社が合わなかったのは僕だけではないと思う。というのも、1年後の現在、当時いた社員全員がこの会社を辞めているからである。 そんな株式会社ブラックであるが、僕が社長のトシに言いたいことがある。それは、「お前の夢を叶えるために俺たちは生きてきたわけではない」ということだ。 ベンチャー企業は一般的に大企業よりも待遇が悪い。給料も低いし、福利厚生もない。株式会社ブラックはもちろん、待遇はほぼ底辺である。ただ、これは社長の裁量でどうにかなる場合も結構ある。つまり待遇が低いのは、社長のトシが一切待遇改善をしようと思っていないからだ。 その言い訳なのかどうかは知らないが、トシは常にこう言っていた。 「ベンチャー企業は、待遇は良くないかもしれないけど、夢を叶えられる。」 この意識高い発言に対し、僕は猛反論したい。ここで言う夢というのは、お前の夢であり、俺の夢ではない。もしトシと似たような夢を僕が持っていたとしても、夢が叶った時の手柄は100%社長のトシに持っていかれる。会社というのはそういうものだ。社員が働くのは、とにかく待遇のためなのだ。 夢を叶えられる職業でも、待遇を良くすることはできる。パイロットなどそのいい例だと思う。夢と待遇は反比例であるとは限らない。 常にトシは、"ベンチャー企業"という言葉を使えばなんでも許されると思っているが全くの間違いだ。顧客も、その会社で働く社員であっても、ベンチャー企業だから許されるものはない。「ベンチャー企業は自由だよ」とかポジティブな内容で使うのは正しい使い方だが、「ベンチャー企業は待遇低いよ」というネガティブで使うのは正しい使い方ではない。トシはそこがわかっていない

時間というものを過信していないか

イメージ
最近は通勤中にポッドキャストを聞いています。今はこの番組を聞いています。 『行け!世界遺産と雑学の旅』 http://tabitabi-podcast.com/sekaiisan/ この番組は、二人の男性が、世界遺産&その他の話をする番組ですが、とても面白いです。世代も僕と同じぐらいなのに博識で、ちょっと自分が情けなくなります。 その番組の雑学の場面で「時間と言うものを過信してないか」という話をしていました。話のきっかけは、植物が育つ要素についてでした。学校では「水・光・栄養」が3要素と教わりましたが、その他に「時間」が必要だという話でした。 しかし、逆に人は「時間」だけが重要だと考えていないかという話でした。 確かに、僕自身そう思っておりました。時間がたてば解決する、時間が経てば業績が出る、時間が経てば頭が良くなると。 実際に僕はスウェーデンに来て半年ですが、スウェーデン語は愚か、英語も成長していません。生活はスウェーデン語、仕事場は英語の環境なので、いつかできるだろうと思っても全く出来ない。学ぼうと思わなければ全く成長しないのだと感じました。 それだけではなく、ただ経験しても問題意識がなければ全く成長しません。僕は、何か自分が変わるかと思い数年前に海外ボランティアに行きました。その経験は今は活かされていないような気がします。僕以外の人をディスることにもなりますが、一緒に行ったメンバーも、海外ボランティアに行った後は普通の会社に入り、普通の生活をしている人がほとんどです。行く前は世界を変える、自分を変えるとか言ってたのに。 結局、時間がたっても全く成長しません。水も栄養も与えなければ、種は一向に成長しません。時間は必要だが十分でないということです。これから、もっと問題意識を持って、「自分は変わるんだ」という意識を持たなければいけないと思いました。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村

最高にクズな僕

イメージ
よくこのブログで意識高い奴らを叩きまくってますが、何よりもクズなのは僕です。 僕は今の職に満足しているわけではありません。「スウェーデンまで行って何言ってんだ」と思われるかもしれませんが、スウェーデンに来たのは、以前の株式会社ブラック(このブログ4−8月を参照)よりもマシだったから変わっただけです。ベストではなくベターなのです。 「んじゃベストな仕事に就けばいいじゃん」って思われるかもしれませんが、能力のない人間にはとても無理な話です。おまけに僕は能力がない上に怠け者ですからどうしようもありません。 怠け者な僕ですが、それでも極たまに頑張る時があるんです。以前上司に「こういうことがしたい」と提案したら、上司は快くその仕事を僕に与えてくれたんです。 とても喜ばしいことですが、その仕事は副業的なもので、本業の合間や家でやる作業なのです。もうおわかりかもしれませんが、怠け者の僕はろくにその副業をやりませんでした。 すると、ある時上司から「あれ、どうなった??」と言われました。当然ですね。 僕「あ、、、金曜に資料見せます」と言いました。 つまり明日です。 いやー、終わってないよ。見せるもん無いよ。 ということで今泣きそうになりながらやってるんですが、いくらどうがんまっても24時間以内に終わらないものがあるんですよね。 ってか、自分でコレやりたいって言っといて、やらないってどういうことなの? 馬鹿かよ。 ランキング参加中です よかったら押してくださいね。 ↓↓ にほんブログ村