家族という既得権

僕は今、学生の頃にもらっていた奨学金という重い十字架を背負っている。貧乏家庭に生まれ、なおかつ親が早くに他界したので高校から奨学金をもらっていた。その上、博士課程にはいったので、12年間も奨学金をもらっていたことになる。その重い十字架を死ぬまで背負っていかなければならないかもしれない。博士課程に進むのを選んだのは自分なので、誰にも文句は言う権利はない。自分で重い十字架を背負うことを選んだのである。

しかし、全く同じ道を歩んでいる人でも、親の金でその十字架を軽くしている人を見ると、不公平だとは感じている。

僕は「生まれる場所や性質は選択できないから、それらによって人生が変わってはいけない」と思っている。貧乏・裕福な家庭関係なく、自分で稼ぐことができない年齢までは、教育や生活にかかる費用は平等に国が出すべだ。

それを見事に実践しているのが、ぼくが今長期滞在しているスウェーデンである。

スウェーデンの一番のイメージは、福祉国家だが、その通りでスウェーデンは大学まで教育費タダ。それ以外にもいろいろな待遇があるらしい。
「教育費をタダにせよ」


この高福祉国家の理念の骨格は、「国民の家」という考え方らしい。

国民の家とは、簡単に言えば「国が親になり子供(国民)の面倒を見る」というもの。国が親となるのだから、スウェーデン国民であれば、基本的には同じ待遇の教育や福祉を受けることが出来る。

もちろんその理念は、家族関係が希薄になるという短所もあり、政策の転換期には、自殺率や飲酒率が上がったらしい。国がこければ皆こけるという危険性も有る。

しかし、教育に関しては、家族ではなく国が面倒を見るというスウェーデン式の考え方が好きだな。

ただ、「国民の家」は、スウェーデン国民に限るという「国籍という既得権」は残っている。家族・国籍という二大既得権を打破して、タンザニアの村に生まれた子供でも、ビル・ゲイツの家族に生まれた子供でも同様に教育を受ける権利を持てるような世界にしたいなぁ。

参考文献はこちら→スウェーデンはなぜ強いのか