僕も他人の苦労はわからないのだから、僕の苦労も他人はわからないのだ

今回、ストックホルムに住むことになり、色々大変なことがあった。

その一つは引っ越し。僕は独身でかつ家族がいないので荷物を置いておくところがない。だから、使えるものも何もかも、スーツケースに積めるもの以外は捨てるほかなかった。捨てるのにもたくさんのお金がかかった。

市役所とか銀行とかNHKとか、外国に住むことになる際は国内の連絡先を聞かれる。僕はそれを聞かれるのがとても嫌だ。国内の連絡先などないのである。一応親戚の連絡先を書いたが、それは家族ではない。気安く頼むことができない。

ストックホルムに行く飛行機は自腹、アパートも、もちろん自腹。半年間株式会社ブラックで働いた貯金がほぼなくなる。

ストックホルムで働くことになるまでの経緯もとても大変だった。それは研究職で働く人にとって参考になると思うので、改めて書こうと思う。

僕の大変さとは裏腹に、友人たちは呑気なものである。僕が何回もストックホルムに行くと言っても、「どこに行くんだっけ?」とどうでもいいような対応をする。僕の大変さをわかってほしい。

しかし、よく考えれば、その友人だって僕が知らない人生の修羅場をたくさん経験しているのかもしれない。精神的に参ってしまい仕事に行けなくなったとか、離婚したとか。もし、友人がその大変なエピソードを語っとしても僕は「ふーん」と言って話を終えるだろう。

人々は皆、修羅場を迎える。しかしそれは他人には決してわからない。いくら家族が、末期癌になっても、その人の気持ちをわかってあげることは決してできない。むしろ、たくさんの人の苦しみを感じることができるのであれば、とても生きてはいけないだろう。

他人は僕に、苦しみを押し付けたりしない。だから、僕も自分の大変さや「私、かわいそうな子羊なの」感をわかってもらおうと思うのはやめよう。僕が味わう苦しみは、神様が僕に消化するように分配してくれたものなのだ。